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執筆と読書と雑談なブログ。毎日更新……だった。約一年ぶりにブログ復活の兆し。趣味は麻雀が追加されました。
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カテゴリに迷いましたが、結局執筆にしました。

さて、金八先生の新シリーズが始まりました。
まず久々に見て思ったのが、金八先生というものは視聴者にとってどのような存在なのか、ということです。
まあそれは視聴者の数だけ答えがあるわけですが、ここでは私が思う在り方を書こうかと。

私が思うに、金八先生とは英雄(ヒーロー)であり偶像(アイドル)に分類される存在であると思います。
金八先生という存在はよくリアリティの面から「有り得ない」とよく言われますが、私はそれは当たり前なのではないかと思うわけです。
いまだ学生の身で言うのは少々おかしい気もしますが、おそらく今の教育機関というものは多くの矛盾を抱えているのだと思います。
それは、現状ではどうしようもない部分です。
ですが、それをどうかと思う人が、どうにかしたいと思う人がいます。
そこで現れたのが金八先生という存在です。
彼は現実では誰も主張できない教育の理想論を教育の現場で主張していきます。
そこにリアリティがないのは、むしろ然るべきだと、私は思います。
もし、このシリーズにリアリティなどというものを取り入れてしまえば、金八先生はとっくに先生でなくなってしまいますし、あるいは主張を発することができなくなってしまいます。
ある面では彼はハリウッド映画ばりのダイハード(死なない)な主人公(ヒーロー)であるのではないでしょうか?

物語には冒頭部分でテーマとして取り上げたいことの反対を明確に示すことによって、主題を明確化する手法があります(私のこの言い方がはたして本当にあっているかは、正直自信がありませんがw)。
これをアンチテーゼと呼びます。少なくとも、私はだいたいそのように認識しています(適当ですね、すみません)。
今回、金八先生の第一話では多くのアンチテーゼが示されました。
私が個人的にそうかな?と思うものだけでも、「親の過保護」、「親の無関心」、「親と教育者の関係」、「ネット問題」などなど、正直全部は挙げ切れません。(このいわゆる「テーマ」は個々で呼び方も変わってくるかと思います)
これらはどこにでも転がっている問題です。
ですが、決してドラマのような問題の表面化はしません。
なぜなら我々の担任は、坂本金八ではないからです。
けなしている訳ではありません。
言い換えれば、我々の担任は『ハリウッド映画の主人公』ではないのです。

金八先生ではこれまでかなりリアリティのある手法で、さまざまな問題が描かれていました。
その手法の素晴らしさが、逆に金八先生というドラマにリアリティを持ち込みすぎた結果、すこし(あくまで超個人的な視点から言えば、)違った目で「坂本金八」が見られてしまう事態を招いたようにも思います。
これも、ある面ではかなり余計なお世話ですね(-_-)ウーム
こういう文章は難しいです……

またある面ではそうしたリアリティのある現実をリアリティのない(ない、とはあまり認識されない)坂本金八が華麗に解決していく姿を見て、視聴者はカルタシスを得るのかもしれません。


ただ、金八先生はとても「今」の問題を捉えた良いドラマなので、「リアリティがないから」という理由で切り捨てられるのは個人的に残念に思います。


見ている者への問題提起、という意味でもとても良く、巧いドラマだと思います。
あれを見ていると、いろいろなことを考えさせられます。
テーマを扱った小説家になりたい自分としては、とても見習わねばならないことは多いです。

小説には直接関係はありませんが、(間接的に応用できるくらい巧くなりたいなぁ)カメラワークにもかなりどきりとさせられるシーンが多くありました。

台詞もとても良い物が多い。個人的なただの感想ですが、このシリーズに出てくる国語というかホームルームというか、金八先生が現実の詩などをもってくる授業はとても好きです。

もう個々では挙げられないくらい、たくさんの葛藤や技巧を見せ付けられました。

ただ、ひとつだけ言いたいことを絞って最後を締めます。
よく、「金八先生みたいな先生に会いたかった」等のせりふを見聞きしますが、私は決してそうは思いません。
逆に、現実にいるんだとしたら、彼のような担任には絶対に当たりたくありません。だってウザいですもん。
生徒なんて内申を気にするに決まっているし、授業はできるなら塾みたいな入試に即したものをやって欲しいに決まっています。
家庭にまで教師が入ってきた日には吐き気がします。現実では教師にそこまでは求められていません。
ですが、だからこそ、ドラマという虚構の中でくらいなら、彼の説教を聴いてみる価値はあるのではないかと思います。
彼は問題を提起する、ダイハードなヒーローです。
リアリティがない、と切り捨てるのではなく、できるだけ多くの人のこのドラマは見て欲しいと私は思いました。
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一晩で本を三冊読みました。
十二時間かかりました。
貫徹でした。
結論。

人間、やればできる!
……なにやってんだ受験生。

なにはともあれ、待ちに待ったウィザーズブレイン新刊ですよ!
どれくらい待ったと思ってんだこのやろおおおおおおおおお!!!
って感じですね。
6巻完結させるのにあやうく一年またぐところでした。あぶないあぶない。

さて内容ですが、
まさにウィザーズ・ブレイン!
って感じで大満足でした。
路線はこんな感じで絶対に間違いがありません。三枝さん?間違ってませんよ。大丈夫です。
ついでにウィザに向かって「萌え」とか言った人、死刑です。(「燃え」とか言った人、仲間です。おめでとう。)
あの話のどこに「萌え」があると?
いや、実際個人の好みですけどね。
ただなんかウィザでまともサイトがないなー、とか思う今日この頃。
作りてー。でも受験だしー。
すざまじい葛藤が俺の脳内では展開されています。


さて、感想でも。
でもネタばれ無しで語るのはむずいな。
一言で言えばどこの純文学かと。
もうここまで「ひとりの命と多数の命」のテーマを貫くと、もはや三枝さんはそんな現実にトラウマでも抱えてるのではないかとか疑いたくなるほど頑なに固執しましたね。
今回で改めて思ったのが、どうやら三枝さんは錬を全体の主人公に据えているんだな、ということですね。
まさに新章の名にふさわしい展開でした。
これまでどこか世捨て人的な考えがあった錬。
そして自分が生きることに負い目だけを感じてきたフィア。
その二人の前を確固たる意見、生き様を持つ人々たちが駆け抜けていった話ではなかったかと、個人的には解釈しています。
二人にとって、ニューデリーで起こった今回の事件は転換期となるのでしょう。
あらゆる人が、今回は錬に、フィアに、問題を問い続けました。
思考することをやめていた二人は、これから悩んでいくのだと思います。
――いまだ答えを出していない者だけが辿り付ける答えを求めて。


構成的になにより感嘆ものだったのは第九章 論理の戦場で展開された論戦ですね。
普通、テーマに関する論議を作中でキャラになんかやらせたら興ざめもんなんですが、三枝さんはすごすぎます。ていうかこれ、ちゃんと計算してやってるんですよね?って感じです。
ちゃんと議論している当人たちの背景が読者に伝わっているので、どちらの言葉も言葉以上に含むところがあり伝わるところがあります。どちらにとっても、それはただのテーマの議論ではなく(もちろん作中に大きく関わる議題でもあります)互いが負ければ大きなものを失う「戦い」の場になっていることが、おそらく読む者を飽きさせないのではないでしょうか。
どう考えても狙ってますが、本気で狙ってるのならそれこそ大学で研究するくらい価値あんじゃね?とか思う今日この頃。みなさまはいかがお過ごしでしょうか(何


最近ではもうウィザに戦闘とかいらなくね?とか思わなくもないです。
三枝さんはこの素晴らしい展開だけで食っていけます。
半分以上ファンが極端なのはあの難解すぎる設定のせいなのだから、いっそ捨てろ、とか。
いや、でもあの難解な設定があるからマザーの設定がしっかりしてたり諸シティだったり歴史がしっかりしてるんだけども。
ぶっちゃけなきゃないで寂しいけど。あの早すぎて俺の脳内ではスロー再生しかされないウィザ戦闘。


というわけで今回の戦闘。
とりあえず三枝さんの無限の発想力に感服。
あなたそのネタどこから引っ張ってきてんの?
基本的に極度のネタばれは避けているので詳細はなし。
まったく予想できませんでした。
錬、実は君弱いんじゃね説完全撤廃。


さて、なきゃないで寂しい、(実は大っ大っ大っ好きな)戦闘シーンにもテーマは絡んできている相変わらずなクオリティを発揮する三枝さん。
今回のメインの対戦カードは上巻を読んだ人ならなんとなく予想ぐらいは立っていたであろう、あの子とあの人です。さすが表と裏。
比較的キャラの仲良しさの目立つ(ある意味今回は異常だった)このシリーズですが、やはりというか、こことここは反発しあいますか。
まさにこの二人の対峙はテーマの体現でもある。
そこらへんも分かりすぎだ、作者。
おそらく、一生分かり合う事はないだろうな。
お互いが、お互いを理解しないだろう。


今回、いろいろな新事実が発覚してちょいシティの言い分が揺らぎました。
作中の世論も、読者意見も、これで少しは賢人会議派が増えるのではないかと期待しています。
しかし逆に言えば、少し賢人会議が有利すぎるこの現状はすこしバランスが悪いですね。三枝さんはそこのところのバランスとかはどう思ってるんだろう?
ここからの各シティの言い分や意向が気にかかります。
でも月夜は最後にとてもいいことを言いました。


さて、だらだら続けると永遠に終わらなさそうなので、ここいらで一区切りつけようかと。
次の巻では放置の目立つ『龍使い』やら『人形』がようやっと絡むようで。『黒衣の騎士』も駆けつけるようですが、はてさて展開はまったくもって読めません。錬とフィアの行き先からもロンドンが絡むのは間違いないようですが、次回予告では北極もからむとのこと。ウィッテンが向かったのは南極?どっちにしろついに大気制御衛星が表舞台にその巨体を現す様子で。はたして『世界の解』とやらがなんかのか。作中の世界情勢に気をかけつつも、最後には青空の戻るハッピーエンド希望ということで、今回は例のあの人の台詞で締めようかとw

「どうか、全ての人々にとって幸せな未来を――――」

評価……(一個価値。規格外)
久々にとある友人とメッセ。目の覚めるような一言を頂戴しました。

曰く「キャラに振り回されるんじゃなくて、キャラを振り回すくらいしてやれ」

だそうです。
最近また書けなくなったこと相談したら言われました。
キャラ立ちの話ですね。
キャラが生きるにはどうするか?ではなく、
キャラを駒として使いこなしてみろ、だそうです。

そもそも私の手法がキャラありきではなく、物語ありきなのだからもしかしたら私個人にとってはその方が正しい在り方なのかもしれません。
書きたい本質があり、その物語があって、そこに日常やらなんやらの必要性が生まれて、その中で最も見栄えする登場人物をしたてる。
確かにしっくりくるやり方な気はします。
物語から逆算された、必要にして十分なキャラクター。
うん、確かにありだ。

そもそも話していて気づいたのですが、今回のスランプの原因はプロットに穴が多い状態で書き始めたからわけが分からなくなったみたいです。
前回のときはそれこそタイムテーブル並みのシーンずつ、誰が出てきてだいたいどんな会話をするのか。重要なシーンとシーンをどんなエピソードでつなげるのかまで、完璧に、それこそ苦しんで苦しんでプロットを埋めてから書き出したはずだった。
なのに今回は穴だらけ。
欲が出てきた証拠です。
しかも手を抜いた上での欲が。

キャラも必要性のうえに、こんな属性があれば面白い、みたいな安易で設定に裏づけのない性格をプラスしようと、ここでも余計な欲がでました。
おそらくこれがキャラの性格を作者自身が見失った原因でしょう。
もう一度、キャラの履歴書もしっかりと作りこんで出直します。

プロットも今あるものは破棄しよう。
もう一度、今の俺の頭の中にある要素を構成しなおして0から作り直そう。

まず物語ありきであることを忘れないこと。

そのためにはなにをしなければならないのかを、常に考えること。

この話は

「陸上で戦う」

「主人公の葛藤」

がやりたかったこと。それだけを忘れないように。
いかにそのシーンを見せるか。
今まで文章に関しては常に貪欲な姿勢で挑んできた。
今回は、禁欲の姿勢で挑むべし。
聞いていた曲の中に「傷つくたびに、優しくなれる」という歌詞があった。
個人的な意見を言わせてもらえば、それは違うと思う。
ただ前提としてその曲の否定ではない、とだけは言っておきたい。解釈を変えればもしかしたら歌詞では違うことを言っているのかもしれないし、なによりあくまで「歌詞」なわけだし。
なんとなく聞いていた曲の歌詞の中で面白いことを言っていたので書き留めといておこうと思った。

傷つくたびに優しくなれる。
そんな優しさは悲しすぎる。
だいたい、傷つくことで優しくなれるのは優しい人間だけだ。
優しくない人間は傷つくことでどうなるのか?私は復讐を考えるのではないかと思う。
痛みを知った人間の中には他人をその痛みから守ろうとする人間もいれば、自分だけがその痛みを感じるのは理不尽だと憤慨する人間もいる。蛇足だが優しさの中にも他人を痛めつけることに恐怖するネガティブなケースもあるだろう。
ともかく、傷は人を優しくなどしない。
では傷はいったい人になにをもたらすのか?
私は傷とはその人間にとっての研磨材ではないのかと思う。
おそらく、優しい人間は傷を負うことでより優しくなれるだろう。
では優しくない人間は?
おそらく、より醜くなるのではないだろうか。
傷とはその人間の本質を浮き彫りにするのだと、私は思った。

ただ、普通の人間は本質がどっちだったとしても理性やら倫理やら常識によってそこまで問題にはならないのだと、同時に思う。
問題になるのは、「普通」を超えてしまった傷を負った人間だ。
本質がどちらであるかなどは問題ではない。
過ぎた本質の顕現は優しさであろうとそれ以外であろうと、歪みに他ならない。
どっちにしたところで自分もろとも他人に不幸をもたらすのではないだろうか、と私は思う。

まあ実例を知っているわけでもない私がしたり顔でいうのもおかしな話ではある。
ただ、そうなのかな?というとりとめもない持論。ただの書き留めだ。
真理がどんなものであるかは知らないが、ただひとつ言える事は傷なんてもんはできるかぎり負うもんじゃない。
「なぜ怪我をしてはいけないか分かる?」
「自分が痛いからだよ」
後ろでテレビを見ている母親が昔言っていたことだ。

そりゃそうだw
人物設定だけ作りまくって、あとは連載マンガみたいに短編連載くさく書く、とかはどうだろう。
あまり上手い小説を書こうとするのではなくてリハビリくらいのつもりで書いたほうがいいのかもしれないな。
いやぁ、しかし頭んなか醗酵して変な汁とか出てきてそう(涙)
まじどうしよう……


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プロフィール
HN:
天野 雀
年齢:
34
性別:
男性
誕生日:
1989/11/24
職業:
高校三年生
趣味:
読書・麻雀
自己紹介:
大学生ニート。麻雀始めました。
物書き生命ぴんち。リハビリと休養に努めたいと思います。いや、努めちゃだめなの……か?
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